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新品 :JSBK12384229819 中古 :JSBK123842298191 |
発売日 | 2025/02/14 13:09 | 定価 | 14,000円 | 型番 | Z6018843431 | ||
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メーカー | 栄耀栄華を極めた藤の花の華麗な開花のような源氏一族の繁栄を記した・自筆「源氏物語」藤裏葉(ふじうらのは)原文・茶道15-B | ||||||||
カテゴリ |
写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)家紋印の上の2つの印は仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。断層(MRI)写真従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。篆書体の左の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款写真右上の2つの印は仙台藩医・木村寿禎の落款右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いているHP近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。在知即将入太子妃,今后能再,思之不悲。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。「藤裏葉の巻」原本の末尾(原本番号25-B)の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印左の写真が「源氏物語」藤裏葉の巻の末尾(原本番号25-B)の押印。今更違う相手と娘を結婚させるのは風聞が悪く、夕霧の方からあせって結婚を申し込む様子もなく、内大臣は自分が折れるべきだと考えるようになった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。做了尼姑的母夫人也愿看到外女儿富。《「源氏物語」藤裏葉(ふじのうらは)の巻》《内大臣の姫君(雲井雁)と宰相中将(夕霧)との恋物語の原文》《明石の姫君の入内・明石の君(明石の姫君の母)を後見役とする》《(源氏の君)「よく気づいてくださったものよ」とお思いになって、そういうわけでとあちらの明石の御方(明石の君・明石の姫君の母)にもこの件を話してお聞かせになったので、御方(明石の君)はたいそううれしくて、ついに長年の望みが成就したという心地がして、女房の装束、何やかやのことも、やんごとない紫の上の御有様にも劣らぬようにとその支度を始める。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。まるで楊貴妃の栄耀栄華を見るようである。一方、自分のようなものがこうして生き長らえていることを、一方では心ぐるしく思うのである。紫式部が「藤裏葉」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「藤裏葉の巻」を書いていることがわかります。 大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。上の篆書体は、「紫藤花下漸黄昏」(紫藤の花の下、漸(ようやく)黄昏(たそがれ)の押印。仲睦まじい夫婦の誕生に、源氏は親心に嬉しく夕霧の辛抱強さを褒めてやる。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。源氏の君の子息・夕霧と内大臣の姫君・雲居の雁の恋を無理矢理裂いてから数年、二人の恋愛は世上に知られている。 「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。》備考・内大臣(雲井雁の父)と宰相中将(夕霧)の不仲は、夕霧と雲井雁の二人が愛し合っていることに不満を持ってのこと。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。明石夫人如果同行,因身低微,必随徒,很不体面。京都の公卿・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵自筆「源氏物語」の「藤裏葉(ふじのうらは)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。中央の写真は、応永五年(1398)の年号。従って、応永五年とは、書き始めの年である。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。甚至祈佛保佑延寿,以便与外女儿再一面。いま(今)一(ひと)たひみ(見)たてまつ(奉)る世もや、と、いのち(命)をさへしふね(執念)くなしてねん(念)しけるを、いかにしてかはと思ふもかなし。「藤裏葉の巻」は、藤の裏葉の巻は華麗な源氏一族を描いている。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。かき(限)・・・《りもなく》(文責・出品者)「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。寸法「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。(2)・自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。《自筆上部の原本自筆上部に「紫藤花下漸黄昏」(紫藤の花の下、漸(ようやく)黄昏(たそがれ)の漢詩文の落款が押捺されている。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。左大臣から関白に昇進した近衛基熙(もとひろ)公の花押。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品(来歴)大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。)自筆の疎明資料等は、下記の通りです。年号の左の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。御入内の当夜は紫の上が付き添って参内なさるが、実の母君(明石の君)は、そのとき姫君の御輦車(てぐるま)にも同乗できず、身を低めて徒歩(かち)でついていったりするのも世間体がわるかろうが、それも自身としてはどう思われようとかまわないにしても、ただこうもたいせつにお仕立てあげになった姫君(明石の姫君)にとって、それこそ玉の瑕(きず)になりはせぬかと思われる。《藤花末叶(藤裏葉)》明石夫人喜不自,幸夙愿于,忙准侍女服装等事宜,其究不于身高的正夫人。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。是日夜,紫夫人伴送女公子入。女公子入的式,源氏大臣并不分以人目,然而亦自十分体面,乎常。并不嫌自己委屈,只怕金枝玉叶的女公子了微的生母而,因此不入。実母は近衛家女房(瑤林院)。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。上下2段の花押のうち、上の印は。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。紫式部がこの原詩に親しんでいたと推定されている。自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」と娘・幾千姫(玉映)の落款(印譜)原本自筆上部に「紫藤花下漸黄昏」(紫藤の花の下、漸(ようやく)黄昏(たそがれ)と記されている。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。(2)・自筆の「英訳文」は次の通りです。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。以来不仲であるがさりとて、姫君(雲井雁)にとって夕霧以上の婿がいないため悩む親心をあらわしている。不昧公 公卿 肉筆 保障 保証 真筆 真筆 親筆 古筆 本物保証 本物保障 室町 掛軸 掛け軸 自筆 天皇 茶道具 宗鑑 良寛 伝来 歌仙 極め 極札 極め札 鑑定。幼名は多治丸。筆者は近衛関白政家公。 旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。(Ⅰ)・上の写真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭・(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社・刊)78頁。ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。現在の今上天皇と系譜がつながっている。)大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載《「源氏物語」藤裏葉(ふじのうらは)の巻》「藤裏葉」の巻は英文で「The Eastern Cottage」と表記されます。》「額縁入自筆原本」(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。4・近衛基熙(このえもとひろ)について近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。御参りのきしき(儀式)、人のめ(目)おとろ(驚)くはかりのこと(事)はせし、とおほ(思)しつゝめと、をのつからよ(世)のつね(常)のさま(様)にそあらぬや。冬姫は内大臣・通誠の養女。四月、自邸で藤の花の宴を開くという内大臣の口上を持った息子の柏木が、夕霧を迎えにやってくる。紫式部が「藤裏葉」を書くに際し、「白楽天」の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。左端の写真は「藤裏葉の巻」末尾の拡大写真。詳細な理由は下記説明欄に記載(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。この場合、落札後に正確な中国語の文字を記載した中国語訳文を交付いたします。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。 自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。漢詩の落款の意味原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。正式な名は伊達貞子。 落款の「讃」の元になるその原文の個所には、「紫藤花下漸黄昏」(紫藤の花の下、漸(ようやく)黄昏(たそがれ)という漢詩文の落款が押捺されている。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。《自筆上部の原本自筆上部に「紫藤花下漸黄昏」(紫藤の花の下、漸(ようやく)黄昏(たそがれ)の漢詩文の落款が押捺されている。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。この漢詩は「白楽天」に由来するものです。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。源氏の君は「准太政天皇」の地位に上る。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。《十・明石の姫君入内、明石の君、参内し明石の姫君に侍する》 姫君(明石の姫君)の御入内の儀式は、(源氏の君)「人目を驚かすようなものにはしたくない」と大臣(源氏の君)は遠慮しておられるが。藤の裏葉の巻は華麗な源氏一族を描いている。藤の花の宴で内大臣はかねての仲であった娘の雲居の雁と夕霧の結婚を認める。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。「源氏物語」の自筆について1・筆跡の分析について 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。玄宗皇帝と楊貴妃の栄耀栄華を見るようなさまを描いている。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。その夜は、うへ(上) そ(添)ひて参り給ふに、御て(輦)くるま(車)にも、た(立)ちくたりうちあゆ(歩)みなと人わろかるへきを、わかためは思ひはゝか(憚)らす、たゝかくみか(磨)きたて奉り給ふ玉のきすにて、わかかくなか(長)らふるを、かつはいみしう心くるしう思ふ。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。》《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。漢詩文原文上部に「紫藤花下漸黄昏」(紫藤の花の下、漸(ようやく)黄昏(たそがれ)という漢詩文の落款が押捺されている。《「源氏物語」藤裏葉(ふじのうらは)の巻》《あま(尼)》・・・・きみ(君)なん、なをこの御お(生)ひさき(先) み(見)たてまつ(奉)らんのこゝろ(心)ふか(深)ゝりける。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。 出品した「源氏物語」は藤裏葉(ふじのうらは)の内容の要旨「藤裏葉」(ふじのうらは)の巻は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。また、各巻ごとの書かれた年については不明。「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。自筆の希少価値について自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。緊張している夕霧に源氏は出かけるよう促し、着替え用にと自らの上等な衣服を選び与える。》自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)自筆が「古切」とされたのは江戸時代。それでも・・・・《しぜんに世間並というわけにはゆかないのである。出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)「自筆の画像断層(MRI)写真」(出品した自筆の「断層画像写真」(藤裏葉の巻)MRI 33―15B自筆二つの印のうち上は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款。冬姫は通称。中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)注記・中国語の文字の一部がシステムの関係で反映されない場合があります。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。栄耀栄華を極めた藤の花の華麗な開花のさまは源氏一族の繁栄を示すものであった。源氏物語「藤裏葉」原本に記されております。内大臣も結婚させてみると後宮での競争の多い入内より、立派な婿を迎えた今の結婚の方が幸せだと分かり、心から喜んで夕霧を大切に扱うのだった。紫夫人在中得乘。《Wisteria Leaves (藤裏葉)》She threw herself into the preparations, none of the other ladies more energetically. The long separation had been especially cruel for the girls grandmother, the old Akashi nun. The pleasure of watching the girl grow up, her last attachment to this life, had been denied her. It was late in the night when the Akashi girl and Murasaki rode to court in a hand-drawn carriage. The Akashi lady did not want to follow on foot with the lesser ladies. She was not concerned for her own dignity, but feared that an appearance of inferiority would flaw the gem which Genji had polished so carefully. Though Genji had wanted the ceremonies to be simple, they seemed to take on brilliance of their own accord. 英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)(2)・自筆の「中国語訳」は次の通りです。「源氏物語・国宝」「藤裏葉の巻」主人公の資料下記写真は、「国宝・源氏物語絵巻」の中に描かれる夕霧と雲井雁「源氏物語絵巻 」(国宝)夕霧(左)と雲井雁(右)右下は、雲井雁侍女「天皇の曽祖父・大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。この原詩の言葉の引用は、「藤裏葉の巻」に用いられていることで広く知られている。額縁は新品です。撮影後、展示のために再表装をしております。自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。)「自筆原本」自筆右下の上の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子と娘・幾千姫(玉映)の落款。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。左の写真は、桐壺の巻の奥付。つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。栄耀栄華を極めた藤の花の華麗な開花のさまは源氏一族の繁栄を示すものであった。一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。 関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。明石の尼》・・・君は、やはりこの姫君の御生い先を見届け申したいという気持が深かったのだが、もう一度お目にかかれる折もあろうかと、いつと分らぬ命にまで強く執着して長生きしようとこらえていたものを、入内(じゅだい)されたらもうお目にかかる機会はあるまい、と思うのも悲しいことである。 特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。(資料の記録は下記に掲示) 出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。母は後水尾天皇皇女女二宮